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名家の宿命 ⑬

last update Last Updated: 2025-04-16 17:23:02

 クラウディアは記録保管庫へと急いだ。イリアとカムランの謎めいた行動、消えた真実―その解決の鍵が、そこに眠っていると信じて。

 霧に呑まれた小道を進んでいる途中、不意に木々の間で小さな光が瞬くのが目に入った。

 咄嗟にランタンを地面に置き、クラウディアは木の陰に身を滑らせた。

 地面に置かれたランタンが暗闇の奥を照らす。

 クラウディアは感覚を研ぎ澄まし、相手の出方を伺った。

 敵か、味方か、それとも……。

 静寂の中、葉擦れの音が微かに耳に届く。小さな動物が動き回る音だ。だが、この森ではどんな音であっても油断することはできない。

 クラウディアは身を屈めて、光の届かない木の陰からそっと覗き込んだ。

 星の欠片のような淡い光……。

 ふわりと揺らぎながら、小さな動物の形を描いている。

「まだ、この森にいたのか……」

 森の伝承に語られる、小さな守り手。星リス。

 淡く輝く毛皮をまとい、黒曜石のように澄んだ目でクラウディアをじっと見つめている。

 戦時中、村人が森で迷わないように導いたという小さな生き物だ。星リスが発する光は、森の鼓動を表しているかのように儚く揺れている。それは、どこか不安を感じさせるものだった。

 クラウディアは眉をひそめ、目の前に現れた星リスをじっと見つめた。森の導き手として知られるその存在が、なぜ今、こうして姿を現したのか——その理由を考えずにはいられなかった。

「お前は、この森の現状をどう思っている?」

 クラウディアは星リスに問いかけた。しかし星リスは答えず、その輝きをただ揺らすだけだった。そして次の瞬間、光はゆっくりと薄れ、暗闇へと消えていった。

 じっと息を潜めながら、クラウディアは光の消えゆく先を見つめた。

 森は何かを訴えている……。

 クラウディアは心の中で星リスの光が何を意味しているのかを考えながら、再び足を踏み出した。

 記録保管庫へ向かう足取りが次第に早まる。リノアとエレナに危険が迫っているのではないかという焦りが、クラウディアの足を急がせた。

 村はずれに位置する記録保管庫は、時の流れをそのまま抱え込んだような古びた建物だ。木の扉は朽ちかけ、苔むした屋根が年月の重みを思わせる。

 鍵を回す音が静寂の中に響き、扉が軋みながら開いた。中に一歩足を踏み入れると、埃っぽい空気と書物の古びた匂いがクラウディアを迎えた。

 ランタンの
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     クラウディアは記録保管庫へと急いだ。イリアとカムランの謎めいた行動、消えた真実―その解決の鍵が、そこに眠っていると信じて。 霧に呑まれた小道を進んでいる途中、不意に木々の間で小さな光が瞬くのが目に入った。 咄嗟にランタンを地面に置き、クラウディアは木の陰に身を滑らせた。 地面に置かれたランタンが暗闇の奥を照らす。 クラウディアは感覚を研ぎ澄まし、相手の出方を伺った。 敵か、味方か、それとも……。 静寂の中、葉擦れの音が微かに耳に届く。小さな動物が動き回る音だ。だが、この森ではどんな音であっても油断することはできない。 クラウディアは身を屈めて、光の届かない木の陰からそっと覗き込んだ。 星の欠片のような淡い光……。 ふわりと揺らぎながら、小さな動物の形を描いている。「まだ、この森にいたのか……」 森の伝承に語られる、小さな守り手。星リス。 淡く輝く毛皮をまとい、黒曜石のように澄んだ目でクラウディアをじっと見つめている。 戦時中、村人が森で迷わないように導いたという小さな生き物だ。星リスが発する光は、森の鼓動を表しているかのように儚く揺れている。それは、どこか不安を感じさせるものだった。 クラウディアは眉をひそめ、目の前に現れた星リスをじっと見つめた。森の導き手として知られるその存在が、なぜ今、こうして姿を現したのか——その理由を考えずにはいられなかった。「お前は、この森の現状をどう思っている?」 クラウディアは星リスに問いかけた。しかし星リスは答えず、その輝きをただ揺らすだけだった。そして次の瞬間、光はゆっくりと薄れ、暗闇へと消えていった。 じっと息を潜めながら、クラウディアは光の消えゆく先を見つめた。 森は何かを訴えている……。 クラウディアは心の中で星リスの光が何を意味しているのかを考えながら、再び足を踏み出した。 記録保管庫へ向かう足取りが次第に早まる。リノアとエレナに危険が迫っているのではないかという焦りが、クラウディアの足を急がせた。 村はずれに位置する記録保管庫は、時の流れをそのまま抱え込んだような古びた建物だ。木の扉は朽ちかけ、苔むした屋根が年月の重みを思わせる。 鍵を回す音が静寂の中に響き、扉が軋みながら開いた。中に一歩足を踏み入れると、埃っぽい空気と書物の古びた匂いがクラウディアを迎えた。 ランタンの

  • 水鏡の星詠   名家の宿命 ⑫

    「ノクティス家が……?」 エダンはゆっくりとランタンを持ち上げ、影が揺れる中でクラウディアの顔を見つめた。「そうだ。この村にとってノクティス家は欠かせない一族だった。彼らの裏切りなど、誰ひとり信じることができなかったよ。それは村にとって、あまりに衝撃的で、現実味を欠いているように思えたからな」 エダンは肩をすくめながら、しわがれた声で続けた。「しかし、その噂は瞬く間に村中に広がっていった。誰もが心の中では否定したかったが、繰り返し語られるうちに、次第にそれが真実のように思えてきたのだ」 クラウディアは沈黙の中でエダンの話を咀嚼した。「エダン、その噂を最初に広めたのは誰だか分かる?」「誰が最初かなんて、分かるわけがないだろう。あの混乱の中で真実は霧のようにぼやけ、誰もが自分の見たいものしか見なかったのだからな」 エダンは目を細めたまま、唸るように応えた。 リノアの両親――イリアとカムラン。 戦乱の最中、戦死したと誰もが信じていた。しかし、彼らの遺体はどこにも見つからなかった。今もどこかで生きていることは十分に考えられるが……。 しかし、本当にあの二人が裏切るなどということがあるのだろうか? しかも当時はシオンとリノアは幼かったのだ。 イリアの穏やかな笑顔とカムランの剣に宿る誇り──あの二人が裏切るなど有りえない。「それにしても、急にどうしたんだ。あんたがそんな昔のことを掘り返すなんて」 エダンの声には探るような鋭さが潜んでいた。ランタンの揺れる光がエダンの顔にちらつく疑念を浮かび上がらせる。 クラウディアは一瞬だけ目を向け、エダンの視線を受け止めた。だが、その挑発には乗らず、冷静に言葉を返した。「ちょっと気になることがあったんでね」 そう言い放つと、クラウディアは背を向けた。霧の帳が揺れる中、クラウディアのシルエットがランタンの淡い光に滲む。エダンの視線が背中に刺さるのを感じたが、クラウディアは振り返ることなく、歩を進めた。「エダンのあの様子では、噂を心の底から信じている。他の村人たちもエダンのように噂を信じているのだろうか。 クラウディアの胸に抑えきれない苛立ちが広がる。 どうして誰も疑わないのか。どうして村を守るために命を賭した人たちを憎むのか。 脳裏にイリアとカムランの最後の言葉がよみがえる。──シオンとリノアを頼む

  • 水鏡の星詠   名家の宿命 ⑪

     クラウディアは広場を後にし、杖を突いて小道を急いだ。古老の家は村の外れにある。苔むした石垣に囲まれた小さな家。時間の積み重ねが石垣に刻まれ、歴史の重みが感じられる場所だ。 ランタンの淡い光が地面を照らし、クラウディアの影を長く伸ばしている。光の揺らめきに合わせて、影もまた不安定に踊っているようだった。 クラウディアはその視界の片隅に移る影を無意識に眺めながら、手元に残る紙の感触に意識を向けた。 あの伝言を見て、リノアはどう判断するのだろうか……。 期待と不安が胸中を交錯する。 クラウディアは小さな家の前で立ち止まると、木の戸を軽く叩いた。 やがて戸がゆっくり開き、白髪の古老エダンがランタンを手に姿を現した。皺だらけの顔に鋭い目が光っている。「クラウディア、こんな夜更けに何だ? 国の血を引く者が、こんな時間に村をさまようとはな」 そう言って、エダンは鋭い目でクラウディアを見据えた。その声には疑念と挑発が混じっている。──国の血を引く者── エダンの棘のある言葉がクラウディアの心を現実から過去へと引き戻していく。 かつて国に盲従し、森を焼き払う命令に従おうとしたことがあった。森が失われた時の痛ましい光景、そして村人たちの悲鳴が耳元に鮮明に蘇る。 もしあの時、リノアの母に出会わなかったら、一体、私はどうなっていたのか。あのまま闇に墜ちて行ったのではないか。 クラウディアはエダンの疑うような視線を受け流し、心を落ち着かせた後、静かに言葉を紡いだ。「エダン、こんな時間に押しかけてきて申し訳ない。この村のために、どうしても今すぐ動かなければならないことがあってね」 エダンはクラウディアの言葉に耳を傾けながら、ランタンを少し持ち上げ、顔に一層影を作った。 二人の間に緊張感が漂う。 クラウディアは目を逸らさず、エダンの鋭い目に応えた。「森は私たちの命そのもの。私が信じるべきものは国ではなかった」 クラウディアは杖を握り直し、毅然とした表情でエダンを見つめた。その姿には過去と向き合いながらも未来を守る決意が宿っている。──自然を失えば人は滅びる── リノアの母が私の目を真っすぐに見据えて言った。あのような澄んだ目をした人間を見たことがない。 リノアの母の存在が私の心を国から引き離したのだ。「エダン、戦乱時の話を聞きたい。名家や国の動き

  • 水鏡の星詠   名家の宿命 ⑩

    「グレタたちがどこへ向かうにせよ、グレタがこの村を訪れた理由を軽視するわけにはいかない」 ただ買い物に出かけたというわけではないだろう。グレタは何かを企んでいる。「覚悟を決めなければならない時が来たのかもしれない」 クラウディアはそっと呟いた。 リノアを危険な目に晒すわけにはいかないが、グレタが言っていたように、もうそのようなことを言っている場合ではない。 リノアの力を信じなければ、この村の未来は守れないのだ。「トラン、ミラ、お前たちは寒い中、本当によく頑張ってくれている。村のみんなも二人の働きを頼りにしているよ」 クラウディアの声には冷静さと共に温かな励ましが込められており、その言葉は二人の心に安堵をもたらした。 クラウディアは視線をトランへ移すと、穏やかだが確固たる口調で続けた。「トラン、ひとつ頼みたいことがある」「僕に……ですか? 一体、何をすれば……」 トランは困惑した表情を浮かべた。ミラが不安そうな顔でトランを見つめる。「リノアとエレナが森の小屋で作業をしていると思う。二人に伝言を届けて欲しい」 クラウディアは言葉を慎重に選び、トランを見つめた。「トラン、無理しない方が……」 トランは姉の視線を受け流すように顔を上げた。「大丈夫だよ、ミラ。僕だって、それくらいのことはできるよ」 その言葉には、年下ながらも自分の力を証明したいという強い意志が感じられる。「クラウディア様。任せて下さい。シオンが研究していた小屋ですね。すぐに向かいます」「シオンの研究所までは安全だから良いが、それより先は危険が潜んでいるかもしれない。トラン、先に進むんじゃないよ。リノアとエレナが小屋にいなかった時は紙を置いて直ぐに戻っておいで」 そう言ってクラウディアはトランに一枚の紙を手渡した。「分かりました。そうします。クラウディア様」 クラウディアの言葉を胸に刻み込み、トランは顔を引き締めた。 ランタンを手にして広場を出て行くトランの背中は、迷いを振り払うようにまっすぐ伸びている。「ミラ、トランなら大丈夫よ」 クラウディアは不安そうにしているミラの肩に手を置いて、優しく声をかけた。ミラが唇をかみながら、小さく頷く。 広場の空気は冷え込み、鋭い寒気が肌を刺すようだった。薄く立ち込める霞の中で、クラウディアは遠ざかっていくトランの背中を目で

  • 水鏡の星詠   名家の宿命 ⑨

     冷たい風が吹き抜ける中、クラウディアは足元の霜を踏みしめながら広場へと進んだ。視線の先には森をじっと見据え、森を見張っているトランとミラの姿がある。 戦乱が終わって以降、村人たちは自然の調和に守られながら穏やかに暮らした。その為、この村では森を見張る習慣はなくなっていた。しかし、それはシオンが亡くなる数週間前までの話だ。 シオンが亡くなる少し前から起こり始めた森の異変……。 村人たちは当初、単なる季節の移り変わりだと思っていた。しかし成熟する前に果実がしぼみ、井戸水の味が変わり始めた頃には、目の前で起きる現実を無視することができなくなった。 森には得体の知れない気配が漂い始め、森の奥深くからは唸り声にも似た不気味な音が聞こえる。その音は森そのものが苦しみを訴えているかのようであり、村人たちの間では「あれは亡霊の叫びだ」という噂が瞬く間に広がった。 村のあちこちで家畜が突然暴れ出すことや、夜空を貫くような雷鳴が響き渡ることに関しては、それまでも時折、起きていたことではあった。しかし、それすらも現実の外側からやってくる何者かの仕業とされた。 それでも誰もそれを確かめに行こうとはしなかった。変化の兆しを感じても、村人たちはただ不安に囚われ、遠巻きに森を見つめるだけ。ただ、シオンを除いては……。 森の奥深くに入ったシオンが何を見たのか、そして何を知ったのか、今となっては誰にも分からない。 危機感を抱いたクラウディアは、村の広場に見張り役を立てるよう指示した。森の異変に村が脅かされている現状に対し、何かが侵入してくる可能性を考慮せざるを得なかったからだ。 思考が過去の出来事を振り返る中、クラウディアは冷たい風に頬を撫でられ、意識を現実に引き戻した。 張り詰めた空気の中でクラウディアは改めて視線を広場に戻し、まるで見えない手が村の中心を押さえつけているような圧迫感を感じ取った。気温は低く、肌を刺す冷たさが身にしみる。 クラウディアは広場の端に立つ見張り役の二人、トランとミラのもとへ歩み寄った。霧がわずかに晴れ、薄光が広場を淡く照らしている。「クラウディア様、グレタさんは村を出る前、少し遠くを見て、何かを考えているようでした。そのまま来た道を戻るのかと思っていたら、別の方向に……」 トランが一歩前に出て、慎重な口調で答えた。「あのグレタって人、目的

  • 水鏡の星詠   名家の宿命 ⑧

     一人残されたクラウディアは、部屋の片隅に目を遣った。そこにはシオンとの思い出の品々が並んでいる。今となっては、どれも大切な形見だ。 シオンは人に恨まれるような人間ではなかった。それなのに彼は殺された。シオンは間違いなく誰かに殺されている。 シオンの死がもたらしたものは、想像以上に大きい。クラウディアは改めてその重さを痛感した。 グレタの言葉が頭から離れない。『リノアが未来を握っている』『名家の力を削ごうとする存在』『龍の涙』が絡むなら、この村だけの問題では済まない。このままでは一方的に蹂躙されるだけだ。「私は何をすべきか……」 呟きが静寂の中に消えていく。「星詠みの力……」 クラウディアは心の中でリノアを思い浮かべた。「リノアの力はいずれ必要になる。私が道を指し示すべきか。それとも……」 道を誤れば、リノアの未来も村々の未来も揺らいでしまう。そのことを考えると胸の奥に疼くような痛みが走る。しかし目を背けるわけにはいかない。 クラウディアは目を閉じ、思考を巡らせた。 エレナも立派に育っている。今のエレナならリノアを支えることができるのではないか。しかもシオンが生きていた頃から二人の絆は深い。あの二人なら、きっと大丈夫だ。 薬草の香りが微かに漂う中、ランプの炎が揺らぎ、壁にかかる古い地図に影を落とした。 森が私たちに語りたがっているもの——それを理解しなければならない。迷っている時間はもうない。すでに事態は動き始めている。 この流れを止めることは、もはや誰にもできないのだ。 窓の外で霧が揺れ、森の奥から低く唸るような音が響いた。クラウディアの耳にその音が届き、背筋に冷たいものが走る。 クラウディアは息を深く吸って、気持ちを整えた。窓の外に広がる薄暗い空を見つめながら、ゆっくりと考えを巡らせる。 あの戦乱の最中、私は命からがら追ってから逃げた。仲間を見捨てて……。 リノアの両親がどこへ消えたのか、このまま曖昧にしておくわけにはいかない。きっと、今もどこかで生きているはずだ。名家の血が運命の歯車を動かすというのなら、私も動こう」 クラウディアは拳を軽く握りしめた。 クラウディアは立ち上がると、壁に掛けた厚手のコートに手を伸ばした。しっかりとした作りのそのコートは、冬の冷たい空気を遮る頼もしさを持っている。 クラウディアはコー

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